潜在能力を解き放つ

禅とは、根本的には、宇宙から授かった知的能力を最大限に引き出すための営みです。この潜在能力の拡張は、意識を高めることによってではなく、むしろ意識を最小限にすることによって成し遂げられます。何もしない「無為」の状態を涵養し、「無」へと溶け込んでいく。こうした考え方は、とりわけ西洋的なものの見方からすると、ひどく直感に反するように映るかもしれません。
オイゲン・ヘリゲルの著書『弓と禅』(Zen in the Art of Archery)は、この逆説をよく示しています。禅を理解しようと熱望した西洋の哲学者であったヘリゲルは、弓術の修行を通してその本質をつかもうとしました。師は、彼に考えるのをやめ、的と一体になるよう説きました。考えまいと努めることが、かえって的を正確に射抜くことにつながる。ヘリゲルには、それがどうにも腑に落ちませんでした。しかし年月をかけて稽古を重ね、師と言葉を交わすうちに、やがて彼は、禅の核心にある言葉では説明しがたい畏敬の念を、自らの手で見いだしていったのです。
『弓と禅』は、ゴディバのジェローム・シュシャン氏や、アップルのスティーブ・ジョブズ氏といった人々にも愛読されていたと言われています。この本が禅のすべてを完璧に言い表しているわけではないかもしれません。それでも、分析的な理屈よりも直接の経験を重んじる禅を前にして、西洋の知性がいかに戸惑うかを、この本はよく映し出していると思います。西洋の文化が理屈を先に置きがちなのに対して、東洋の文化はしばしば感じることから始まるのです。
禅には、「不立文字(ふりゅうもんじ)」「教外別伝(きょうげべつでん)」という言葉があります。いずれも達磨大師に由来するとされる言葉です。これらは、言葉や文字に頼らないこと、そして教えの外にある特別な伝授を意味しています。禅は、たったひとつの正典に拠って立つものではありません。むしろ経験こそを何より大切な回路とし、禅の本当の中身は自らの手で見いださなければならないことを強調します。師のすべてが、書かれた教義を超えて、弟子へと直接手渡されていくのです。
人はしばしば、読んだり、見たり、聞いたりしただけで、何かを理解したつもりになります。けれども禅において、理解は実際に「行う」ことを通してしか生まれません。インターネットの時代には、手軽に意見を口にできることが、あたかも知恵を備えているかのような錯覚を与えます。見慣れない考えに出会ったとき、人はそれを拒むか、受け入れるかのどちらかで、そのふるまいのなかに自分自身をさらけ出すのです。
禅のもっとも難しいところのひとつは、まさに肝心な場面でこそ、力を抜くことを身につける点にあります。何も考えず、力もこめない。そう説かれます。こうした決定的な局面で手放すことによって、私たちのなかに隠れていた能力が現れ出てきます。もちろん、これは言うほど簡単なことではありません。生まれたばかりの赤ん坊が自然に備えている、力みのないあり方を取り戻すために、大人はしばしば懸命に努めなければならないのです。
潜在能力を解き放つとは、意識的な努力をさらに足していくことではなく、本来の力を鈍らせている雑音を差し引いていくことなのだと思います。禅は、いつもの思考のパターンを一歩踏み越え、私たちがずっと自分のなかに抱えてきたものに気づくよう、そっと促してくれるのです。
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